アイダ難民キャンプは、バンクシーの「世界一眺めの悪いホテル」から歩いて行ける近さで、あわせていくのがおススメ。今は治安も落ち着いている。現地ガイドか、この地に詳しい人と一緒に行くのが安心。
キャンプの入口には大きなカギのモニュメントがある。難民キャンプに住む人のキーワードは「Key of Return」。いつか戻ると思って出てきた自宅のカギが難民キャンプの象徴。
難民キャンプと言っても、起こったのは70年以上前の話。
1948年、イスラエル建国後に起きた戦争で、今のイスラエルに住んでいたパレスチナ人たちは逃げて、追い出されて難民となった。
このアイダ難民キャンプも、当時はテントがあった。その頃の写真がこれ。
そこに、国連から小さい平屋の建物が提供された。
その時の建物が今も残っている。
でも、ほとんどの建物は、増築したり、建て替えたりしている。そして、今は、普通の狭い住宅街みたいになっている。だから、元難民キャンプだった場所にある難民が住む住宅街、と言った方がイメージしやすいかも。
キャンプ内には、幼稚園もある。
モスクもある。
ここにいる子どもたちは、外国人が見に来ることに慣れているけど、変にすれてもいない。人懐っこく話しをしてくれる子供もいる。
もともと住んでいた土地の名前が書かれた地図。
難民の数は、パレスチナ自治区となったヨルダン川西岸に100万人、ガザに144万人いる。他にも、ヨルダンに229万人、シリアに62万人、レバノンに53万人。
IDカードを描いた壁面アート。1948年、アイダ難民キャンプ産まれ。お父さんは監獄にいて、お母さんは殺された。
「ここではタイガーだけが生き残れるんだ」それぐらい厳しい環境だった。
入植地にやってきたイスラエル人が水をたくさんとっていき、パレスチナ人はそのわずかな余りをもらっていることを象徴的に描いた絵。
入口にある少年の写真は何?と聞くと、ここで向こうの監視塔からイスラエル兵に打たれて亡くなった子供の写真だという。そして、殺されるところを父親が見ていたんだとも。
2014年にガザで起きたイスラエルとパレスチナの戦争で、パレスチナ側で亡くなった子供の名前がずらっと書かれている。
今は落ち着いていてイスラエル兵を見ることもないけど、数年前はこのキャンプも、イスラエル兵が頻繁にやってきてパレスチナ人を連行したり、イスラエル兵とパレスチナ人の衝突が起きて催涙弾などが飛び交っていたらしい。
キャンプの敷地内にあるこの土産物で売っている金属のアクセサリーは、イスラエル側が使った催涙弾の残骸から作ったもの。
「催涙弾には米国製と書いてあるだろ」の店番をしている少年が教えてくれた。
国連のパレスチナ難民を支援するUNRWAという組織が、今は教育と医療の支援を続けている。そして、これはサウジアラビアの支援により建設中の男の子の学校とヘルスセンター。
ごみ処理施設を作ろうとしていたが、分離壁に近すぎるので、イスラエル側がストップさせたままになっているとのこと。現地ガイドは、「自分たちの土地ですらこうやってイスラエルにいちいち干渉されるんだ」、とぼやいていた。
<アイダ難民キャンプを訪問したい方へ>
バンクシーのThe Walled off Hotel では、一日2回、アイダ難民キャンプとホテル周辺の分離壁アートを周るツアーをやっている。宿泊者以外も参加できる。
また、例えば以下のツアーも、ベツレヘムの分離壁や難民キャンプなどを訪問している。
ちなみに、最近はAirbnbを通じて難民キャンプでの宿泊を体験することもできるらしい。
https://againstthecompass.com/en/dheisheh-palestinian-refugee-camp-bethelehem/