エルサレムで主夫はじめました

~~~~~~~~ 30年間のサラリーマン生活から早期退職をして、イスラエルのエルサレムに家族で住み、主夫をはじめました。 ~~~~~~~~~~~~~~インターナショナルスクールに通う子供たちの様子、イスラエルとパレスチナの日常、主夫の心境などをつづります。 内藤 徹~~~~~

#36 コロナで急遽一時帰国(その2)

<第3章:いきなりの避難一時帰国決定>

3月16日(月)、青年海外協力隊が全世界から引き上げることになったと聞いた。2000人規模で世界各地に派遣している協力隊全員を、このタイミングで日本に帰すという決定には驚いた。まだ、いわゆる開発途上国での蔓延はアジア、中東の一部ぐらいに限られていて、アフリカや中南米にはやっと感染者が少しずつ出てきたぐらいだったからだ。ただ、フライトのキャンセルや空港閉鎖の動きは一部の国で出てきていた。医療体制が弱い国々で感染が広がったら、厳しい状況は確かに予想された。感染者を出すことや、国外に出られなくなる可能性があることから、早い段階で組織としてリスクの最小化の決断したのだろうと理解した。

そして、3月17日(火)、仕事先の妻から、続いてJICAのスタッフの家族も一時帰国させることが決定したと連絡があった。急な動きだった。その日は、休校中の福島の高校生にZoomで話をしたり、子供たちを矯正の歯医者に連れて行ったり、学校にムスメの勉強道具を取りに行ったりと、コロナが広がった中での変わらぬ日常を過ごしていた。イスラエルは、初めての死者が出たばかりの段階で、外出制限や買い占めは起きていたが、特に日常の不安や感染のリスクを感じることもなかった。日本人や外国人駐在員にも特に帰国の動きはなかったし、自分たちも帰ることは全く考えていなかった。

一時帰国は想定外だったが、全世界での方針と聞き、受入れる以外の選択肢はなかった。あと3か月したら父子で帰る予定だった我が家としては、このタイミングで帰ることでムスコの帰国子女枠の扱いがどうなるかがまずは気になった。また、家族が急に分かれることへの漠然とした不安があった。そして、いつ戻れるか分からず、またもし戻れなくなったら、このままイスラエルの暮らしが途切れたまま終わってしまう可能性があることに、戸惑いもあった。

妻は関係者のフライト手配に四苦八苦していた。我々のフライトも、一旦3月22日(日)発のトルコ航空便で手配できたものの、その後一方的にキャンセルされてしまい、慌ててオランダ航空(KLM)に変更になった。オランダは既に感染が広がっており、日本の厚労省の情報によると、経由しただけでも日本で検疫対象となり、公共交通機関が使えなくなる可能性があるとのことだった。また、もし万が一アムステルダムから日本へのフライトが急にキャンセルされたら感染が広がる慣れない国で、子供と3人だけでホテル暮らしになる、という最悪なシナリオも想定され、できれば避けたかった。しかし、他にもアエロフロートは飛んでいるが、最近搭乗拒否をされたケースがあるとの情報があったこともあり、結局一番確実に帰れそうなオランダ経由で帰ることになった。日本からは、1日でも早く帰るようにとの話があり、出発が前倒しになるのではと慌てたが、結局は予定通り日曜に帰ることになり、とりあえずほっとした。

ムスメの遠隔授業も始まり、一緒にPCに向かいながら宿題などを確認するなど、慣れない手順でばたばたする中、同時並行で帰国の準備を始めた。部屋にスーツケースを並べて、すぐに使う衣類や勉強道具などのパッキング、子どもの学校や仲の良い知り合いへの連絡、妻への引継ぎの書き出し、重要書類の整理などを、To Doリストを作ってこなしていった。

そんなばたばたの中、いつもはさしたるわがままも言わずにマイペースで過ごしているムスコから、日本から送ってもらったサンフレッチェ広島のユニフォームとTシャツがまだ届かないけどどうにかならないか、と懇願される。何をこの忙しいときに!と、いらっとしたが、ムスコは珍しく真剣に何度も確認してくる。取り急ぎ、荷物の配達状況をネットで確認してみると、ちょうど出発直前にエルサレムに届くことが分かった。忙しい中、車で30分ほどの集配場に行き無事ゲットして帰ると、ムスコはニヤリとして嬉しそうだった。

出発までは息の抜けない緊迫する時期だったけど、親が焦ったり、動揺したりするのは子供の気持ち的にも良くないと思い、平然と、余裕あるようにふるまっていた。急遽の帰国も、日本に帰れば日本食も食べられるし、と前向きに話していた。だけど、時間的にも、気持ち的にも、本心はわりといっぱいいっぱいな感じだった。

ムスメは、急にばたばた準備して誰とも会わずに帰国というのもかわいそうなので、近所の日本人友達の家で遊ばせてもらった。また、ちょっと家から離れた外国人の友達とは、外出制限もあるので、ビデオ電話をしたり、写真とメッセージを送ったりして、出発前のあいさつをした。

同じアパートで仲良くなったユダヤ人ファミリーに連絡して、安息日の金曜夜に家に顔を出しおしゃべりをした。1歳になる子どもをムスコが気に入って、時々自らベビーシッターをしに行っていた家族。お茶とお菓子をいただきながらよもやま話をして、もしも戻れなかったら、東京にぜひ遊びに来て、まあ今はいつでも連絡できるからね、と別れた。

フライトは、オンラインチェックインもできて、無事飛びそうだ。成田から公共交通機関が使えないことを想定して、兄に相談したり、ハイヤーを探したりした。でも、結局出発までに足は確保できないまま、出発の時間になった。

 

<第4章:イスラエルから日本へ>

3月22日(日)は自分の誕生日。早朝1時半に家を出て、車でテルアビブのベングリオン空港へ向かう。荷物は、スーツケース3個、キャリーバック3個、小さなリュックなど3個の計9個。妻と子供たちが別れ別れになるので、最期はちょっとしんみりした。

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空港に行くと、一緒に帰る日本人3家族には知り合いも多く、なんだか心強かった。フライトスケジュールの掲示を見ると、軒並みCANCELEDの文字が並んでいた。

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カウンターで、無事成田までスルーで荷物を預けることができ、日本着便まで無事飛ぶことを実感し、一安心した。普段は厳しい空港のセキュリティチェックも、この日はほとんど厳しくなかった。

機内に入ると、ほぼ満席だった。不安なフライトだけど、家族3人横並びの座席で安心だった。5時15分に飛び立つ。イスラエルではまだマスクが普及していなかったが、機内の多くの人はマスクをしていた。子供らにも、機内でずっとマスクをつけるように言う。そして、当初からこの3月に日本に帰る予定だった日本人家族からプレゼントでもらった携帯の消毒ジェルをポケットに入れて、トイレなどに行くたびに神経質になって子供たちに使わせていた。

9時過ぎにアムステルダムの空港に着いた。空港は空いていた。一緒の日本人家族と、感染に気をつけながら軽く食事をした。

周りに、防護服を着ている人がいたので、空港の関係者かと思ったら、次のフライトを待つお客だった。アジア系の若い人で、他にも何人か見かけて驚いた。

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ここでの待ち時間で、成田空港から家に帰るハイヤーが予約できた。空港送迎専門で、HPでもコロナ隔離者対応もしていると書かれており、メールでの応対も素早くて助かった。(その後、コロナ隔離者対応の対応はやらなくなった模様)

アムステルダムから成田のフライトは14時20分発。6割ぐらいの座席が埋まっていた。日本人がほとんどだった。日本語の機内アナウンスを聞き、これで戻れるなあ、という気持ちになりほっとした。今回も家族3人横並び。他の空いている席でゆっくり横になることもできたが、感染が怖いので3人ずっとくっついて動かなかった。一緒に映画を見て、無理な姿勢で寝て、トイレに行って、ジェルで消毒して、の繰り返しだった。

CAと客の接触を減らすため、機内食サービスが簡素化されていた。回数は減り、飲み物も最低限になるとアナウンスがあった。そんな特別な状況のフライトにもかかわらず、搭乗時の生年月日の情報で気づいたのか、CAがわざわざ僕の席にバースデーを祝うデザートにメッセージカードを添えて持ってきてくれた。自分たちが大変な時なのに、ありがたいなあと感動した。KLMは素晴らしい。

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CAに話しかけると、「戻りの便でオランダに帰るつもりだけど、毎日いつキャンセルになるかも分からない。今の日本の様子はどう?」と聞かれた。機内で乗っているだけでもすごいストレスなのに、彼女らは感染のリスクを負い、さらに帰れないかもしれないという不安の中で仕事をしていた。「日本は早い時期に感染が広がったけど、今はヨーロッパよりずっと感染者数も少ないよ。ちょうど桜の花がきれいな季節だから、もし日本に滞在しなきゃならなくなったら、楽しんで」と気休めの言葉を返すぐらいしかできなかった。

 

<第5章:日本に帰ってきた>

9時45分成田に無事到着した。成田の検疫では、個人情報とコロナがらみの確認書類を書くところで列ができていて待たされた。書類を書き終えたら係官に渡して、「フライトは検疫強化地域のオランダからだけど、自分たちが住んでいたのはイスラエルで検疫強化地域ではない。その場合は自宅隔離の対象になるのか?」、と聞くと、上司に聞いてくるので少し待つように、と言われた。しばらくすると戻ってきて、「オランダには入国していないので自宅隔離対象ではない」、と言われ、ほっとした。体温も、サーモグラフィーでチェックするのみで、入国まで1時間半ほどで、思っていたよりはスムーズだった。

結局公共交通機関で帰ることもできたが、すでにハイヤーを予約していたので、荷物を全部積みこみ、優雅に帰ってきた。久しぶりの日本は、まさに桜が満開前ぐらいできれいだった。家に着くと、ちょうど家を貸していた友達が、荷物をまとめて出ていくところだった。昼間だけ通いでマッサージのサロンとして使ってもらっていたので、住んでいた家を追い出したわけではなかったけど、急遽使えなくなってしまい、迷惑をかけてしまった。

家の中に入ると、懐かしい木の香りがぷーんとしていた。我が家の隣の幼稚園の桜が、ちょうどきれいに咲いていて、キッチンの窓からきれいに見えた。

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海外帰りなので、大丈夫だとは思うが、念のためしばらくは外出も控えおとなしくしていることにした。それにしても、厳しく管理されていたイスラエルや、感染を心配したオランダの空港から日本までの機内を経験してくると、人が普通に外出して歩いている日本がとても不思議な感じがした。そして、感染者も死者も少ないということも謎だった。感染者は検査をしていないからだとしても、死者も少ないのはなぜなんだろう。衛生観念が違うからか、握手やハグをしないからか。それとも、ちゃんとカウントされていないからなのか。ゆったりとした平和な様子が、まるでおとぎの国のように感じるね、とムスコと話していた。