エルサレムで主夫はじめました

~~~~~~~~ 30年間のサラリーマン生活から早期退職をして、イスラエルのエルサレムに家族で住み、主夫をはじめました。 ~~~~~~~~~~~~~~インターナショナルスクールに通う子供たちの様子、イスラエルとパレスチナの日常、主夫の心境などをつづります。 内藤 徹~~~~~

#25 僕が仕事を辞めて家族でエルサレムに来たわけ

僕は、2018年の8月に30年間続けてきたサラリーマン生活に区切りをつけ、妻の転勤にあわせて家族でエルサレムにやってきた。52歳で早期退職し、主夫をやりながら、人生後半のための準備とトランジッションのための期間を過ごしている。今日は、なんで僕が仕事を辞めて家族でエルサレムに来たかをあらためて書こうと思う。

 

僕はバブル時代に民間企業に入社し、ありがたいことに、その会社に海外留学を経験させてもらった。そして、バブル崩壊後の29歳の時に、民間企業から国際協力を行う政府機関に転職し、それから23年ほど働いてきた。妻も同じ組織で働いていたが、そこは男女平等な風土で、海外出張も仕事内容も男女に差はなかった。海外勤務も平等で、いつ話が来るか分からない。最初の海外勤務は、新婚当初、それぞれトルコとエジプトに行った。同じ国の派遣は当時なかったので、これでも人事的には近い場所への配慮した異動だった。

 

その後子供もでき、次に海外に行くなら家族一緒に行きたいと思っていた。すると、ありがたいことに緒方貞子さんが組織のトップだった時に、配偶者の海外転勤で辞める女性が多い組織の状況に対し、女性が継続的に働くことができるよう配偶者海外勤務の際の休職制度ができた。どちらかに海外辞令が出た際は、もう一人は休職してついて行くことができる制度である。うちは夫婦2人で同制度を希望した。

 

妻は2人の子どもを産んだ際に、それぞれ1年間の育児休暇をとったことで、仕事上のハンディを感じていた。そして、できれば自分が優先で海外に行きたいと思っていた。一方、僕はここ10年ほど国内のNGOや企業、学校教育機関等との新たな連携を進める仕事を専門に行う専門職に希望してなってこともあり、日本国内のことに関心が移っていて、海外勤務に対する欲がなくなっていた。そこで、妻の意向も踏まえ人事には「海外に行く際は妻優先で良いです」、と毎年伝えていた。

 

そんな中、前の海外勤務からお互い15年以上がたち、ついに妻の方に海外の話がやってきた。子どもは中1と小3で海外に行くにはちょうどよい時期。本人たちは日本の友達と離れることは望んではいないけど、日本社会から一度抜け出し、違う世界を経験することはきっと人生でプラスになる、と親として確信していた。そして、幸いお互いの母親もまだ元気なので、予定通り僕が妻に同伴して家族で一緒に行くことにした。一緒に海外に行くこと自体に大きな迷いはなく、せいぜいその時やっていた国際理解教育の日本の学校での推進の仕事をもうちょっとやりたかったな、と思ったことぐらい。

 

ただ、ついて行く時点で僕は52歳で、3年ほど行って帰ってきたら55歳になる。その組織で僕の場合は役職定年の歳である。そして、その後もずっと長くちゃんと働けるわけではない。一方、人生100年時代と言われ、我が家では下のムスメはまだ10歳にもなっていない。ムスメの結婚式にも出たいので、あと20年ぐらいはピシッと元気でいたい。元気でいるためには生きがいが大事で、それは自分にとってはやはり仕事による社会参加である。あと20年働くなら、今の仕事を続けていくのでなく、新しいことを見つけて仕事にしていく必要があるのは明らか。そして、国際協力の仕事だって、20年ちょっとでここまでやってこれた。そう考えれば、あと20年あれば、新たな分野に挑戦してもそれなりの仕事ができる期間がある。もし収入が今の仕事の半分になっても、今の仕事で続けられる倍の期間働けば、生涯賃金は一緒になる。まあ、今の半分の収入を自分の力で稼ぐことは簡単ではないのだが。でも、やっぱり大事なのは、自分が今わくわくしてやりがいのある仕事をすること、そして人生のお役目として社会の役に立ち、それを実感して過ごすことじゃないかなぁ、と考えた。

 

まあ、そんなことは、実はだいぶ前から考えてきていた。ある時期から、ある程度早い時期に次の仕事に向けてアクションを起こすべきとも考えていた。ただ、次にやることも決めずに辞めるほどのリスクを冒す気もなく、一方で仕事をつづけながら次の仕事の準備ができるほど器用でもなく。また、仕事自体は面白くやりがいと好奇心を満たすものが続いており、満足しつつも将来に関しては煮え切らない思いでいながら過ごしてきた。

 

これまで2つの大きな組織を経験してきて、次はどこか組織に所属するのでなく、自分の判断で仕事をしていくようなあり方が良いと思っていた。個人エージェントの時代。いくつかの仕事を、その時、内容に応じて仲間とやっていくようなあり方。今までかかわった社会起業支援で知り合った仲間が、様々な形で個人として仕事をやっている様子にも影響を受けた。常に人生に影響を与えている兄の働き方も、意識していた。ぼんやりと、最後の仕事のあり方は、自分の生き方、価値観を基準に、個人で社会と対峙することで、生きている実感も得て、自分のお役目を全うしていき、それにより悔いのない人生が送れるんじゃないかと想像している。それは、きっと組織の価値観や待遇や名前に守られない厳しい世界でもあるけれど。

 

そんなことを考えていた中でもあったので、休職して55歳にまた前の組織に戻って、役職をはずれて仕事をするなら、今このタイミングで辞めてしまったほうが良いのでは、と自然に考えている自分がいた。3年後の気持ちや自分の心身がどうなっているか分からないし、損得で言えば、とりあえず休職にして60まで働ける権利を確保しておき、日本に戻る時点で判断する、というやり方もあった。でも、気持ちとしてもう次に移っていたので、すっきりと立場を明確にしたほうが自分にも迷いがなくなって良いと思った。早期退職の時期が早ければ、その分リスクに対する多少の経済的な支援もあった。

 

今回の妻の海外勤務は、自分にとっても、良い後押しとなる話で、何か今までもんもんと考えてきたことが、環境が整い、また自分の心の準備も整い、まるで木の実が熟してぼとっと落ちるように結論がすんなり自然に出た感じだった。

 

妻はもともとパレスチナ支援がやりたくて国際協力の道に入った。その意味では妻がやりたかった仕事を家族一緒にできるための結論でもある。でも、妻の世話をしに来たつもりはあんまりない。もともと単身でもできる人だから。自分は子供の世話をしているのがここでの一義的なお役目。奥さんのためにえらいですねえ、大英断ですねえ、と言ってくれる人がいるけど、なんか違う。妻の収入でここで生活をしているから、経済的には依存しているわけだし。むしろ、共働きだからこそできることでもあるし。そもそも、根っこが自分のためでないと、何かあった時に人を恨んだり後悔するから、そんな決断はしたいと思わない。今回の決断は自分にとっても、子どもにとっても、妻にとっても良い、三方良しの答えだと思っている。

 

そして、まだ今後何をするかは明確には決まらないが、組織を離れ、家事をしたり、子どもの世話をしたり、一緒に遊んだり、時々NGOのボランティアをしたり、人に会いパレスチナ事情を聞き、やりたかったマッサージを始め、日本から来る人を案内したり、パレスチナイスラエルに関わることで相談を受けたりしながら、自分の素を取り戻し、自分の役割をゆっくり考えながら、やりたいこと、やりたい気分を大事に過ごすことで、少しずつ将来への準備になっている気がする。ので、この流れに乗っていて大丈夫だなあ、と感じながら過ごしている。