エルサレムで主夫はじめました

~~~~~~~~ 30年間のサラリーマン生活から早期退職をして、イスラエルのエルサレムに家族で住み、主夫をはじめました。 ~~~~~~~~~~~~~~インターナショナルスクールに通う子供たちの様子、イスラエルとパレスチナの日常、主夫の心境などをつづります。 内藤 徹~~~~~

#30 イスラエル寄りの日本人ガイドの説明をベツレヘムで聞きながら考えた

先日、知り合いの日本からの視察グループの方と夕食を一緒にしていた時のこと。翌日ベツレヘムに行くと聞いたので、訪問先を聞くと、「日本人ガイドの案内で聖誕教会にだけを見に行く」と。キリスト教の巡礼の旅であればそれで構わないけど、世界の課題を見て平和を考えることが視察の目的として大事だというので、「いやいや、それならバンクシーのホテル(The Walled Off Hotel、通称、世界一眺めの悪いホテル)や分離壁も見るべきですよ。パレスチナ人の難民キャンプも見れますよ。何なら案内しますよ。」と言って、結局翌日、急遽同行ことになった。

 

同行している日本人ガイドは僕も面識のあるベテランの人。こちらの公認ガイドはイスラエル政府の試験を受けて資格を取る。そして、多くはイスラエル人と結婚して暮らしている。そのため、パレスチナ問題に関しては、必然的に視点がイスラエル寄りになりがち。ベツレヘムは検問所を越えたパレスチナ側なので、自ずとパレスチナについて説明をすることになる。その説明はやはり、予想通りイスラエル寄りで、親パレスチナの人が聞いたら、黙っていられないようなことも言う。僕も彼の説明を聞きながら、パレスチナ側ではこう言ってるよ、と心の中で呟きながら話を聞いていた。

 

パレスチナ人のテロ攻撃を防ぐためにイスラエルはセキュリティ用の壁を作った。これができる前は、イスラエルの治安が悪かったが、今は落ち着いた。」

(いやいや、この壁のせいで、パレスチナ人は移動を制限され、検問所で嫌な思いをさせられているんじゃない。そもそも、壁は国連が決めた境界線よりイスラエルの領土が広くなるようパレスチナ側に入り込んで作られていて、パレスチナ人はアパルトヘイトの壁と呼んでいるよ。)

 

イスラエルも平和を望んでいる。ただ、パレスチナは自由にものを言えない汚職社会。和平を進めるためには、まずは、パレスチナが民主的になることだ。」

(いやいや、本当に平和を望んでるなら、なんで、いまだにパレスチナ側で住宅地を作る入植活動イスラエルは続けているんだよ。)

 

パレスチナ経済は弱い。だからイスラエルで働きたい人に許可を与え、検問所を通している。」

(うーん、そもそも狭い土地に追いやり、壁を作って移動を制限し、水を奪って、生活を苦しくしているのはイスラエルじゃん。イスラエルに入れているのも、安い労働力を確保したいからなんじゃないの。)

 

1993年のオスロ合意によりイスラエルパレスチナは一旦和平を実現した。その後、2000年に、イスラエル側がさらなる譲歩をしたにも関わらず、アラファトはその話をひっくり返してしまった。それでオスロ合意は台無しになってしまい、また戦いが始まった。」

イスラエル側の譲歩にアラファトが乗らなかったなんて話は、聞いたことがないな。でも、その頃の抵抗運動といえば第2次インティファーダだけど、始まったきっかけはイスラエル側の挑発行為が原因と聞いているけどな。)

 

ベツレヘム2002年以降、壁が作られてから10年ほど、イスラエル側から観光に入ることができず、経済的に困っていた。イスラエルが観光を許可することで、ベツレヘムの経済は立ち直った。」

(そんなことがあったんだ。知らなかった。でも、そもそも壁を作って入れないようにしたことがおかしいんじゃないの。)

 

「メディアはみなパレスチナ寄り。何か衝突が起きそうになると記者が集まって来て、パレスチナを擁護する記事を書こうとする。」

(うーん、国際社会的には、イスラエルが悪い、と言われているし、実際ひどいことしていると思うし。)

 

そのうち、聖誕教会の見学が終わり、車でベツレヘムの検問所近くにあるアーイダ難民キャンプに行くことにした。が、なんとガイドもドライバーも場所を知らなかった。僕はもう10回ぐらい行っているし、バンクシーのホテルが、毎日2回ツアーもやっていて、フリー旅行者にとっては割と身近な観光地のようなところ。なのに、何十年もやっているベテランガイドでも行ったことがないようだ。結局、僕が道案内をして到着した。

 

そのキャンプは、1948年のイスラエル建国後の戦争で、今のイスラエル側に住んでいたパレスチナ人たちが難民となり逃げてきたところ。最初はテントだったけど、その後住居が提供され、増築したり、建て替えたりして、今は、普通の狭い住宅街みたいになっている。パレスチナ人ガイドから教えてもらった、彼らのおかれた厳しい状況を説明しながら、ぐるりと歩いて周った。日本人ガイドの方も話を聞いているので、あまりイスラエル批判にならないように気を付けつつ。その後、分離壁に書かれているバンクシーの作品や、バンクシーのホテルの中を案内した。

 

パレスチナ側からの視点での説明は、イスラエル側の人にとって居心地の良いものではないはず。敵対した気持ちにならないように、ガイドの方とはあえて握手をして別れた。翌日、「昨日はありがとうございました」と短くメッセージを送ると、「こちらこそ。ベツレヘムキャンプ訪問は、新しい発見でした。ありがとうございました。」と返してくれた。その返事は意外だったし、嬉しかった。

 

僕は今まで、パレスチナ問題については、支援事業をする妻をはじめ、パレスチナ人視点での話を聞いたり、書籍を読んで理解をしてきた。ので、今回のガイドのイスラエル視点の説明はいろいろ思うところはあったけど、イスラエル側はそういう風にとらえているのね、と気づく意味ではとても興味深かった。

 

そういえば、ガイドの人の話していたオスロ合意の後の2000年の出来事って何だろう。オスロ合意というのは、25年ほど前のパレスチナアラファト議長イスラエルのラビン首相が米国クリントン大統領の前で握手をした和平条約のこと。パレスチナ問題は、これで解決すると期待された訳だから、その後なぜこの合意がなし崩しになったのか、原因を考えることはとても大事。なのに僕は知らない。ので、ちょっと山積みになり、なかなか進まない関連書籍を開いた。そこで書かれていることは、要はこういうことだった。

 

1993年のオスロ合意によりパレスチナ暫定自治が始まったが、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人入植地、国境画定などは先送されていた。これらの話し合いが20007月にキャンプ・デービッドで、クリントン米大統領の仲介の下、アラファト議長とバラク首相の間で行われた。イスラエルは、これまでエルサレムはすべて自分たちのものと主張していたが、この時はじめてアメリカによるエルサレム分割案を受け入れた。しかし、アラファトは、サウジアラビアやエジプトからの圧力があり、また自らの権限を越える話であることなどから、受入れず、交渉は決裂した。アメリカとイスラエルは、交渉がまとまらなかったのは、アラファトのせいだとした。この後、9月にイスラエルの国会議員のシャロンエルサレムにおけるイスラムの聖地、アルアクサーモスクに突然訪問するという挑発行為により、第2インティファーダが勃発した。」(「世界史の中のパレスチナ問題」臼杵陽より要約)

 

そして、この出来事のとらえ方が、どうもイスラエル側とパレスチナ側では異なっているようだ。

 

イスラエル側は、「イスラエルにとっては大きな譲歩だったのに、アラファトは暴力的な対立を続けるために受入れなかった。」と考え、

パレスチナ側は、「この会談後も交渉は継続されたが、シャロンイスラムの聖地への訪問が暴力的な対立を起こした」と考えている。

 

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どちらが本当か、正しいか、という議論、研究の世界もあるが、僕にとっては、それぞれの心の中にあるもの、信じている解釈それ自体がすでに存在していて、本当のもの。そのそれぞれをお互いが知ることがまずは大事じゃないかと。そして、僕は今までパレスチナ側の視点で見てきたので、イスラエル側の視点で見てみたい、と思い出した。自分もイスラエルに生まれていたら、きっと同じように考えているだろうし、そう考えるのには、何かそれを必然とする背景、思いがきっとあるはず。

 

お互いを理解することは、当事者のパレスチナ人とイスラエル人の間で難しいのは当然だけど、実はイスラエル人と結婚するなどしてイスラエル社会の中で暮らす日本人と、パレスチナ支援をしてエルサレムにすむ日本人でも、なかなか難しい。でも、日本人ですら話ができないなら、当事者同士なんて、絶対まともな話なんかできないんじゃないかと思う。逆に、日本人同士が話すことで、そこで起こる摩擦や、論点が、お互いを理解するカギにもつながるのかも、と思ったりする。

 

この地に関わるものは、多くはこの理不尽な状態をどうにかできないものか、と思いをはせ、そして過去の様々な取り組みと今の置かれている状況にため息をつきながら過ごしている。何ができるわけでもなくても、でも少しは理解し、できることはないものか、と僕も思っている。