エルサレムで主夫はじめました

~~~~~~~~ 30年間のサラリーマン生活から早期退職をして、イスラエルのエルサレムに家族で住み、主夫をはじめました。 ~~~~~~~~~~~~~~インターナショナルスクールに通う子供たちの様子、イスラエルとパレスチナの日常、主夫の心境などをつづります。 内藤 徹~~~~~

#30 イスラエル寄りの日本人ガイドの説明をベツレヘムで聞きながら考えた

先日、知り合いの日本からの視察グループの方と夕食を一緒にしていた時のこと。翌日ベツレヘムに行くと聞いたので、訪問先を聞くと、「日本人ガイドの案内で聖誕教会にだけを見に行く」と。キリスト教の巡礼の旅であればそれで構わないけど、世界の課題を見て平和を考えることが視察の目的として大事だというので、「いやいや、それならバンクシーのホテル(The Walled Off Hotel、通称、世界一眺めの悪いホテル)や分離壁も見るべきですよ。パレスチナ人の難民キャンプも見れますよ。何なら案内しますよ。」と言って、結局翌日、急遽同行ことになった。

 

同行している日本人ガイドは僕も面識のあるベテランの人。こちらの公認ガイドはイスラエル政府の試験を受けて資格を取る。そして、多くはイスラエル人と結婚して暮らしている。そのため、パレスチナ問題に関しては、必然的に視点がイスラエル寄りになりがち。ベツレヘムは検問所を越えたパレスチナ側なので、自ずとパレスチナについて説明をすることになる。その説明はやはり、予想通りイスラエル寄りで、親パレスチナの人が聞いたら、黙っていられないようなことも言う。僕も彼の説明を聞きながら、パレスチナ側ではこう言ってるよ、と心の中で呟きながら話を聞いていた。

 

パレスチナ人のテロ攻撃を防ぐためにイスラエルはセキュリティ用の壁を作った。これができる前は、イスラエルの治安が悪かったが、今は落ち着いた。」

(いやいや、この壁のせいで、パレスチナ人は移動を制限され、検問所で嫌な思いをさせられているんじゃない。そもそも、壁は国連が決めた境界線よりイスラエルの領土が広くなるようパレスチナ側に入り込んで作られていて、パレスチナ人はアパルトヘイトの壁と呼んでいるよ。)

 

イスラエルも平和を望んでいる。ただ、パレスチナは自由にものを言えない汚職社会。和平を進めるためには、まずは、パレスチナが民主的になることだ。」

(いやいや、本当に平和を望んでるなら、なんで、いまだにパレスチナ側で住宅地を作る入植活動イスラエルは続けているんだよ。)

 

パレスチナ経済は弱い。だからイスラエルで働きたい人に許可を与え、検問所を通している。」

(うーん、そもそも狭い土地に追いやり、壁を作って移動を制限し、水を奪って、生活を苦しくしているのはイスラエルじゃん。イスラエルに入れているのも、安い労働力を確保したいからなんじゃないの。)

 

1993年のオスロ合意によりイスラエルパレスチナは一旦和平を実現した。その後、2000年に、イスラエル側がさらなる譲歩をしたにも関わらず、アラファトはその話をひっくり返してしまった。それでオスロ合意は台無しになってしまい、また戦いが始まった。」

イスラエル側の譲歩にアラファトが乗らなかったなんて話は、聞いたことがないな。でも、その頃の抵抗運動といえば第2次インティファーダだけど、始まったきっかけはイスラエル側の挑発行為が原因と聞いているけどな。)

 

ベツレヘム2002年以降、壁が作られてから10年ほど、イスラエル側から観光に入ることができず、経済的に困っていた。イスラエルが観光を許可することで、ベツレヘムの経済は立ち直った。」

(そんなことがあったんだ。知らなかった。でも、そもそも壁を作って入れないようにしたことがおかしいんじゃないの。)

 

「メディアはみなパレスチナ寄り。何か衝突が起きそうになると記者が集まって来て、パレスチナを擁護する記事を書こうとする。」

(うーん、国際社会的には、イスラエルが悪い、と言われているし、実際ひどいことしていると思うし。)

 

そのうち、聖誕教会の見学が終わり、車でベツレヘムの検問所近くにあるアーイダ難民キャンプに行くことにした。が、なんとガイドもドライバーも場所を知らなかった。僕はもう10回ぐらい行っているし、バンクシーのホテルが、毎日2回ツアーもやっていて、フリー旅行者にとっては割と身近な観光地のようなところ。なのに、何十年もやっているベテランガイドでも行ったことがないようだ。結局、僕が道案内をして到着した。

 

そのキャンプは、1948年のイスラエル建国後の戦争で、今のイスラエル側に住んでいたパレスチナ人たちが難民となり逃げてきたところ。最初はテントだったけど、その後住居が提供され、増築したり、建て替えたりして、今は、普通の狭い住宅街みたいになっている。パレスチナ人ガイドから教えてもらった、彼らのおかれた厳しい状況を説明しながら、ぐるりと歩いて周った。日本人ガイドの方も話を聞いているので、あまりイスラエル批判にならないように気を付けつつ。その後、分離壁に書かれているバンクシーの作品や、バンクシーのホテルの中を案内した。

 

パレスチナ側からの視点での説明は、イスラエル側の人にとって居心地の良いものではないはず。敵対した気持ちにならないように、ガイドの方とはあえて握手をして別れた。翌日、「昨日はありがとうございました」と短くメッセージを送ると、「こちらこそ。ベツレヘムキャンプ訪問は、新しい発見でした。ありがとうございました。」と返してくれた。その返事は意外だったし、嬉しかった。

 

僕は今まで、パレスチナ問題については、支援事業をする妻をはじめ、パレスチナ人視点での話を聞いたり、書籍を読んで理解をしてきた。ので、今回のガイドのイスラエル視点の説明はいろいろ思うところはあったけど、イスラエル側はそういう風にとらえているのね、と気づく意味ではとても興味深かった。

 

そういえば、ガイドの人の話していたオスロ合意の後の2000年の出来事って何だろう。オスロ合意というのは、25年ほど前のパレスチナアラファト議長イスラエルのラビン首相が米国クリントン大統領の前で握手をした和平条約のこと。パレスチナ問題は、これで解決すると期待された訳だから、その後なぜこの合意がなし崩しになったのか、原因を考えることはとても大事。なのに僕は知らない。ので、ちょっと山積みになり、なかなか進まない関連書籍を開いた。そこで書かれていることは、要はこういうことだった。

 

1993年のオスロ合意によりパレスチナ暫定自治が始まったが、エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人入植地、国境画定などは先送されていた。これらの話し合いが20007月にキャンプ・デービッドで、クリントン米大統領の仲介の下、アラファト議長とバラク首相の間で行われた。イスラエルは、これまでエルサレムはすべて自分たちのものと主張していたが、この時はじめてアメリカによるエルサレム分割案を受け入れた。しかし、アラファトは、サウジアラビアやエジプトからの圧力があり、また自らの権限を越える話であることなどから、受入れず、交渉は決裂した。アメリカとイスラエルは、交渉がまとまらなかったのは、アラファトのせいだとした。この後、9月にイスラエルの国会議員のシャロンエルサレムにおけるイスラムの聖地、アルアクサーモスクに突然訪問するという挑発行為により、第2インティファーダが勃発した。」(「世界史の中のパレスチナ問題」臼杵陽より要約)

 

そして、この出来事のとらえ方が、どうもイスラエル側とパレスチナ側では異なっているようだ。

 

イスラエル側は、「イスラエルにとっては大きな譲歩だったのに、アラファトは暴力的な対立を続けるために受入れなかった。」と考え、

パレスチナ側は、「この会談後も交渉は継続されたが、シャロンイスラムの聖地への訪問が暴力的な対立を起こした」と考えている。

 

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どちらが本当か、正しいか、という議論、研究の世界もあるが、僕にとっては、それぞれの心の中にあるもの、信じている解釈それ自体がすでに存在していて、本当のもの。そのそれぞれをお互いが知ることがまずは大事じゃないかと。そして、僕は今までパレスチナ側の視点で見てきたので、イスラエル側の視点で見てみたい、と思い出した。自分もイスラエルに生まれていたら、きっと同じように考えているだろうし、そう考えるのには、何かそれを必然とする背景、思いがきっとあるはず。

 

お互いを理解することは、当事者のパレスチナ人とイスラエル人の間で難しいのは当然だけど、実はイスラエル人と結婚するなどしてイスラエル社会の中で暮らす日本人と、パレスチナ支援をしてエルサレムにすむ日本人でも、なかなか難しい。でも、日本人ですら話ができないなら、当事者同士なんて、絶対まともな話なんかできないんじゃないかと思う。逆に、日本人同士が話すことで、そこで起こる摩擦や、論点が、お互いを理解するカギにもつながるのかも、と思ったりする。

 

この地に関わるものは、多くはこの理不尽な状態をどうにかできないものか、と思いをはせ、そして過去の様々な取り組みと今の置かれている状況にため息をつきながら過ごしている。何ができるわけでもなくても、でも少しは理解し、できることはないものか、と僕も思っている。

#29 主夫ってエライ?なんか偏っている日本の夫婦像

 こちらにいて自己紹介で、「子供の世話をするハウスハズバンドです」というと、大体「いいですね!」、といわれる。奥さんに任せて仕事を休んで、自分の時間ができて、という風に取られるみたい。日本人に言われることの多い「えらいですね!」、はあんまり言われない。日本だと、奥さんの仕事を優先して、とか、男性がやりたがらない家事をやって、という風に取られているみたい。そして、「えらいですね」、の裏には、きっと、「珍しいですね」、という意味も込められている。でも、実際は、家事があんまり苦にならず、自分で自由にやりたい人には美味しいポジションである。そして、海外で、子どもの世話をしながら無職になることは、日本でいきなり無職になって次の仕事の準備をすることと比べると、「自分は何もしていない、何かしないと」、という余計なプレッシャーを感じなくて、ゆったりと人生のギアチェンジができて居心地も良い。

 

こちらに来てから、海外で主夫をする日本人のネットワークを教えてもらい入ったけど、そこで知り合った30から40代あたりの働き盛りで海外主夫やっている男性には葛藤があるのを感じる。それは、単にキャリアが遅れるだけでなく、仕事より家庭を優先させる人とみなされることで、仕事の優先度が低い人と見られてしまうところがあると思う。

 

これまでの日本社会では、仕事よりデートを優先させる人って、ダメだよね、みたいなのは暗黙の了解としてあった。そういう意味では、働き方改革が唱えられている今の時代はいろいろ過渡期。そして、海外で主夫をやっている僕よりひと世代若い世代なんかは、社会からの同調圧力から抜け出し新しい生き方をする勇気ある人たちだと思う。まあ、同調圧力より奥さん圧力が強いケースもあるだろうけど。

 

そして、実は仕事を続けたかったけど、旦那の海外勤務にあわせて仕事を辞めてきた女性も、気持ちとしては僕ら主夫と同じだということも分かった。キャリアのハンディにもなるし、仕事よりプライベートを優先させる、という意味では女性も男性と同じ見られ方をする。だから、そんな女性とは、こちらに来てもなんだか話があったりする。

 

僕は、日本の夫婦の役割分担のあり方はもっと多様でいいと思っている。仕事の能力、意欲、その時々の状況に応じ、フレキシブルにできれば、それがいいと思う。サラリーマンを一旦休むこと、子育てをどっぷり経験することは、仕事をその後続けていく上でも、また社会生活を送る上でも、プラスになることが多い。視点が増え、違う立場の気持ちが理解できるようになったり、良いリセットの時期になったり。そして何より、子どもと一緒の時間が格段に増え、苦労を超えた喜びを知ることができ、きっと将来につながる絆ができるとも思っている。

そもそも、主夫の仕事って、女性が向いているというわけでも必ずしもないとも思う。こちらでも、マーケットで買い物をしたり、ベビーカーを押している男性は普通にたくさんいる。

 

育児休暇の男性取得義務化が話題になったが、取得が義務というのはこれまた「横にならえ」でなんだか違和感がある。どのような形で育児休暇を取るのが良いかは人それぞれ。その状況と希望を尊重して対応することが大事と思う。その会社で奥さんが働いて旦那が育児休暇を取るのが良いならそれももちろん良い。逃げ場もない育児を経験することが育児の大変さの真髄とも思う。また、奥さんが休んでいて、さらに旦那が育児休暇を一緒に取る事も否定はしない。我が家は、妻が毎回出産後1年休み、僕は有休は使ったけど、特に育休の申請はせずに対応した。

制度としては、育児休暇を希望すれば必ずとれるよう、夫婦の取得義務ではなく、会社に対して育児休暇申請を100%許可義務とする方がいい。育児休暇の申請を拒めない仕組みと社会風潮を作ることが大事。

 

さらに言えば、育児休暇は目に見えやすい男性の育児参加の対外表明かもしれないが、自分の経験から言えば、期間限定の育児休暇よりも、その後子供が保育園に行ってからの何年にもわたる朝晩の送り迎えや、その後小学校に入ってからもずっと続く食事等の分担が家族マネジメントの上では大変だった。保育園に間に合うために夫婦で仕事や夜の予定の折り合いをつけるためには、仕事を切り上げ定時、または場合によっては定時前に帰る事を組織がサポートすることが実はとても大事だと思う。また、突発の子どもの病気の対応をサポートしてくれる組織の許容力も不可欠だった。だから、組織が子育てのために親に多様な働き方を許容することを義務にすることが本質的に大事だと思う。

 

子育てに男性として人並み以上に関わってきたことで、子どもの人生を通して別の人生や過去の子ども時代の追体験をする楽しみが得られた。大変ではあったけど、楽しかったなあ、というのが実感だし、それはエルサレムに来てからも同じである。ここは、日本のように友達と自由に遊び歩いたりできないこともあり、子どもとは親子であるとともに、友達関係でもある必要があると思っている。それはそれで楽しんでしまうと楽しい。ムスコとお気に入りのドラマを選んで一緒に入り込んでみたり、ムスメと韓国アイドルのグッズ選びを楽しんだりしながら、「あー自分もこんな頃があったなあ」と、子ども心を取り戻すような時間が過ごせている。

 

主夫の仕事というのも、やってみるとなかなかいろいろある。掃除、洗濯、料理だけでなく、その他の細分化された様々な小さなマネジメント業務がある。

 

買い物マネジメント。消耗品が足りなくならないように。トイレットペーパーがない、なんてことになると困ってしまう。

食材マネジメント。何が足りない?冷蔵庫に入れるスペースがある?どこに買い物に行く?日本から何持ってきてもらう?

食事マネジメント。喜んで食べてもらうネタ探し、栄養バランス、時間かけない、家族それぞれのわがままを適度に聞く。

時間マネジメント。子供を遊ばせる、勉強させる、出かける、人が来る、そのバランス、休み明け前日は早く寝るとか。

娯楽マネジメント。どこに出かける?旅行は?一緒にYouTube見る?日本に電話する?

勉強マネジメント。宿題は?学校からの連絡は?行事の準備は?日本の勉強は?進学は?こっちでもっとできることは?習い事は?

ヘルスマネジメント。体調は大丈夫?薬買う、病院行く、休ませる、食事気配り。

メンタルマネジメント。けんか、落ち込んでいる、つまらなそう、を察知して、さりげなくフォローする。

家計マネジメント。どこでお金を使い、どこで絞るかのメリハリ。せっかくだから海外旅行に行きたいけど、お金かかるから、その分、どこで節約するか。

住まいマネジメント。家具をどうする、物の配置、家族の過ごし方を見た改善、掃除。

衣類マネジメント。洗濯をする、気温にあわせた洋服、足りない衣類はない?日本から持ってきてもらう。

 

考えてみると、こんなことが毎日順不同でやってくる。昼寝もできちゃうけど、いつまでたっても業務時間みたいな感じ。

共働きをしていた時期も、半分は家事をしていたので、ある意味同じことをやってはきた。けど、今は主夫がある意味本業で意識がフォーカスされているからこそ、こんなことも考えたり、書きたいと思ったりするもんだ。

#28 ムスメ2度目の誕生日@エルサレム、あれから1年かと感慨深い

今日はエルサレムに来てから2度目のムスメの誕生日。去年の今頃は、学校を休みがちだったり、誕生パーティー当日に高熱がでたりといろいろあった。学校に持っていくカップケーキ作りも大騒ぎして作った。当時のBlogを読むと、いろいろが懐かしい。

 

Blog#12 高熱を乗り越え、うどん&折り紙のお誕生パーティ決行

https://torutoru.hateblo.jp/entry/2018/11/10/010000

 

それに比べて今年は、穏やかに、地に足ついた感じで過ごしている。

先週土曜は、お誕生会。と言っても、去年やった「クラスの女子全員と日本人仲間を呼び、手作りうどんの人を我が家に招いて」、なんて大々的なのはやめて、本人の希望で仲良しの女子を呼んでこじんまりと。

日本人、アメリカ人やパレスチナ人と日本人とのハーフ、韓国人のクラスメイト、スイスとフィリピンのハーフの子を呼んで。

妻とムスメでみんなと一緒にケーキを作って、その後、親も一緒に手巻き寿司。

気心知れた仲間、今年度から来てすぐ仲良くなった仲間が集まり交わる心地よい時間。

 

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そして、誕生日当日の今日は、インターナショナルスクールの慣例でカップケーキを持っていく。ちょうど昨日は妻が出張で不在。僕はケーキを作ったことがないので、ムスメ主導で作ることにする。

ケーキミックス箱の作り方の説明に350度で焼くと書いてあって、うちのオーブンにはそんな高温はないからと最大の250度で焼いたら、またたく間に黒焦げに。よくよく読んだら、華氏で350度。摂氏ではその半分くらいらしく、慌ててまたケーキミックスと紙カップを買いに行くことになった。

そんなハプニングはあれど、今朝早く起きてのデコレーションも無事終わり、24個のカップケーキをクラスに持っていくことができた。

 

今年8月に同じクラスにやってきた韓国人の女の子とは、来て早々急激に仲良くなった。学校の先生からも、あの2人は仲が良くてお互いにとって良いですね、と言われ、お迎え時間に母親を見つけ、早速家に呼ぶ。

僕もアメリカ留学時代に一番仲良くなり、心を開けたのは韓国人だったから、その気持ちは分かるし、面白いなあと。

家で遊んでいても、なんか遊び方とかふざけ方があうみたいなんだよね。前にクラスメイトを呼んで遊んでる時と比べて、無理がない感じ。

そして、父親は僕と同世代。アメリカでMBAをとって金融業界で働いていたけど、退職して非営利の世界を学びにこちらに来たと。自分と同じようなタイプの人で、すぐに自然と打ち解けた。

 

もっと小さい頃に来ていたらインターナショナルスクールの西欧社会にももっと入り込んだろうけど、10歳になったムスメは日本文化どっぷり。結局1年たってもクレヨンしんちゃんと日本人ユーチューバーばかり見てるので、アジア人と一緒にいる方が居心地いいみたい。

学校に送りに行ったときに様子を見ていると、去年と違ってクラスの女子仲間でも一緒に遊ぶ子とあんまり遊ばない子がはっきりしてきたみたいで、より本音で自分のペースで楽しんでいるようだ。

 

韓国の子と小さな校庭でウンテイをやるのが最近は楽しいみたい。

そんな他愛もないことで、毎日が楽しかったりする。自分が来ることを楽しみに待っていてくれて、喜んで一緒に遊んでくれる子がいることが、学校に行く何よりの原動力。

今日は学校行くかなあ、と心配していた1年前がうそのよう。

一時帰国すると、また日本が恋しくなって、行きたがらなくなるケースも聞いたので、少し心配していたが、良いめぐりあわせのおかげで、そんなことにもならなかった。

ありがたいことだ。

そして、この8月からは、朝ゆっくりしたいと、誰よりも早く5時半に目覚ましをかけて起きて、YouTubeを見ながら過ごしている。これは、実は学校に毎日行くための彼女なりの工夫なんじゃないかと思っている。

 

一方ムスコは、去年に比べ、来たばかりの生徒向けの取り出し授業が減り、他の子と一緒にやる授業が増えている。宿題もメールで来るので、僕のパソコンを使い、作業をすることも多い。

昨日の宿題は、アートで作った作品について、どんな意味があるかを英語で説明したり、宗教の授業で、人体実験は是か非かについて意見をまとめる、なんてことをやっていて、大分日本とはやり方も違う。小学校の頃から、学校でもっといろいろ議論ができると面白い、と言っていたムスコにとっては、こちらのやり方は面白いみたい。

ただ、議論だと英語で話せるかが大きいから、そこは何ともしがたいところだけど。

 

結局高校をどうするかはまだ方針が決まらないけど、大分いろいろ吹き込まれたこともあり、普通の日本の学校はつまんないかも、何か面白い日本の学校がよさそう、と言い出すようになった。

英語学校以外に今まで一度も塾に行っておらず、こちらに来ても学校の勉強と英語の補習以外は特に何もやっていなかったが、さすがに中学レベルの勉強も遅れが出てきたので、海外にいる日本人向けの通信教育を始めることにした。

 

最近は、日本人から紹介されてこちらのインターナショナルなコミュニティでやっているフットサルやサッカーにも顔を出し始めた。

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参加している2つのグループは、どちらも大人がほとんどだが、小学校でずっとやってきたこともあり、いい感じで溶け込んでやっている。スポーツはありがたいもので、初めて会った人同士も、一旦フィールドに出るとルールにのっとり、自然に仲間として役割分担と信頼関係ができ、プレイが始まること。

言葉がなくとも、仲間になる。それはありがたいし、心地よいものだ。

 

予定通り、来年の6月に帰るとなると、あと8か月。帰りのばたばたを考えると、もう実は半年ぐらいしか時間がないことに気づく。だんだん、帰りを意識して過ごしていかないとなあ、と思い始めている。

#27 学生がイスラエル、パレスチナに来る魅力とハードル

今年の9月は訪問客ラッシュ。

振り返って数えてみたら、なんと月の3分の2は誰かが家に泊まっていた。

中学の同級生、広島時代の仲間、社会起業大学で知り合った国際協力仲間、妻の友人親子、パレスチナに頻繁にくる知人など。

 

みな自立的に動いてくれる人たちなのでずっとつきっきりなわけでは全然ないけど、それでも途中まで迎えに行ったり、ご飯作ったり、ちょこっと案内したり、まるで宿屋の親父のような日々を過ごした。

ありがたいことに、日本のものをいろいろ持ってきてくれたり、餃子を作ってもらったり。忙しかったけど、楽しい日々だった。

 

そして、ちょうど同じ時期に、将来イスラエルパレスチナでのスタディツアーを予定している日本の大学関係者の訪問があった。

この大学については以前から知人経由で相談されていて、ツアーの内容について打合せをしたり、たたき台を提案したりしてきた。その関係者が現場を見に来るとのことで、訪問先のアレンジをして、一緒に同行してまわった。

 

イスラエルパレスチナは、学校単位の訪問プログラムは少ないけど、実はネタの宝庫であり、うってつけの訪問先である。パレスチナで活動するNGOには、夏にはインターンがやってくるし、テルアビブの日系企業にも最近は大学生がインターンにやってくる。

 

なんせイスラエルはここ数年、日本のビジネス関係者の視察ブームだ。それは、スタートアップ、AI、ドローン、医療×ITといった点で、今のイスラエルが目覚ましい発展を遂げているからだ。そんな勢いのあるイスラエルに若者が触れることは、きっと良い刺激になるはず。

 

そもそもイスラエルという国家は、まだ建国70年ほどのとても若い国。

もともといたパレスチナ人を追いやり、世界中からユダヤ人を集め、周辺のアラブ諸国を軍事力で蹴散らし、またうまく仲間にして、絶妙かつ危ういバランスで国家を維持している。そんな経緯から安全保障が国家のトッププライオリティで、男女ともに徴兵制がある。

 

住んでいるのは、ヨーロッパ、アメリカ、中東、ロシア、エチオピアからの移民から、もともといたアラブ人まで、超多様。そのため、ヘブライ語を学ぶ学校が充実している一方で、普段からアラビア語、英語、ロシア語が、それぞれのコミュニティで普通に話されている。

そんな国を見ることで、多文化共生や安全保障に関する今の日本の当たり前が世界の当たり前ではないという現実に直面する。そして、なんでだろうと考えることになる。学校でもイスラエルでは日本と違って、意見を言って目立つこと、議論することがとても尊重されているらしい。そんな若者と対話する機会もあるときっと良い。

 

また、世界を知るという意味では、イスラエルに関しては、エルサレムの博物館でユダヤ人が差別されてきた過去の歴史についてもじっくり知ることができる。

 

そして、何よりここには現在も継続しているパレスチナ問題を知る場がある。

国際法上、ルール違反をするイスラエルパレスチナで起きていることを知れば、みなイスラエルに対して憤りを感じるはず。

今も圧倒的な力の差で断続的にガザに空爆を行っている。ヨルダン川西岸では、いまだにパレスチナ人を追い出して少しずつ侵攻していく静かな戦争を続けている。

壁を作り、検問を管理し、何かあれば軍と警察がパレスチナ人を調べ上げ、連れて行くことがいまだ日常的に続けられている。

 

そんな進行中の占領の様子は、例えばイエスが産まれた観光地のベツレヘムに行けば、少し体感することができる。

検問所を越えたすぐの壁には、怒りと皮肉のメッセージのアートが並んでいて、今も書き足されている。バンクシーの作品もたくさんある。

難民発生当時から70年が経ち、今や密集住宅地と化した難民キャンプもすぐ近くで、覗くことができる。

パレスチナ人と対話をすれば、彼らが実際感じている不条理を直接聞くことができる。

 

そして、訪れた者はみな、なぜこんなことが起きているのか、一体誰が悪いのか、どうすれば状況は改善するのか、と答えのない解決策を考えて、もやもや、悶々とすることになる。

 

そんな学びの多いイスラエルパレスチナであるが、実は今回の訪問で学生が来る上で2つのハードルについて、あらためて考えさせられた。

 

一つ目は、治安イメージである。

イスラエルの日常治安は、日本で想像するのとは違い実はとても良い。現状の政治状況であれば、アメリカやヨーロッパの大都市よりも安全と言っていい。パレスチナ側も、我々も行けないガザを除いたヨルダン川西岸は、現在安定している。訪問するとそれは良く分かる。

でも、学生が学校管理のもと来るとなると、話はそう簡単ではない。

まずは、治安イメージの悪い場所に子供を行かせることへの親の抵抗感への対応が必要である。

そして、大勢の海外経験の少ない学生を連れて行く学校側にとっては、パレスチナ側に行く際に兵士が管理する検問所があることや、帰国時の空港での厳しい出国審査があることも、実は負担が大きい。

また、将来的な政治状況の変化から、治安が悪化することも考慮しないとならない。

 

2つ目のハードルは、訪問先のアレンジやプログラムの内容についてである。

パレスチナ問題を考えるには、パレスチナイスラエル双方の立場を理解し、自分で考えることが何より大事である。そのためには、両者をバランスよく訪問し、理解することが不可欠である。ここを間違えると、どちらかの国に偏った視点を最初から植え付けてしまうことになるからだ。

今回のツアーに関して、日本の大学側のリクエストの一つは、現地の大学としっかりパートナーシップを組んだプログラムにしたいということであった。であれば、本来イスラエルパレスチナ、双方の大学と組まないと、バランスよいプログラムはできないと考えた。

しかし、パレスチナ側の大学から、もしイスラエルの大学とパートナーシップを組んで行うプログラムであれば、我々の大学のルールとしてそこに一緒に組むことはできない、と言われた。パレスチナ側にとって、イスラエル側と組んだ活動に関わることは、イスラエル側の立場を認めることになるからである。これは、バランスの取れたプログラムを作るうえで厄介な話である。

そして、ツアーの実施に当たっても、イスラエルパレスチナの双方に詳しく、バランスよく中立的に説明できる日本人ガイドは思いつかない。そうすると、2つに分けてアレンジするしかなく、全体をバランスよく見て、責任をもってコーディネートする人や旅行会社も思い当たらない。

 

視察した日本の大学関係者は、「イスラエルパレスチナの訪問は学生にとって学ぶこと、考えさせられことがあきらかに多い。世界の貧困や平和といった課題を考えるきっかけづくりの研修旅行としては他国と比較しても魅力的な場所である。ただ、実施に当たっては課題が多く、それをどうクリアしてやっていくか、考え、工夫していかなければならない。」と話していた。

なかなか大変ではあろうが、これだけの学びがある場所なので、是非パレスチナ理解を含めたバランスのとれたプログラムを考えてほしいと思う。

 

 

ところで、最近、もう一つ、仕事のようなお手伝いをした。

それは、日本で11月に行われるこちらのセミナーに招待されているパレスチナ人の日本訪問ビザの取得の手伝いである。

 

しあわせの経済 国際フォーラム

http://economics-of-happiness-japan.org/

 

なんで僕が手伝わなければならないのか。

それは、この地特有の問題があるからだ。パレスチナ人が日本訪問のビザを取得するためには、テルアビブに行かないとならない。でも、そのパレスチナ人はヨルダン川西岸に住んでいて、特別の許可を得ないとパレスチナ地域から検問を越えてイスラエル側に出ることはできない。実際、彼には特別の理由がないため許可は得られない。そのため、移動の自由がある東エルサレムに住むパレスチナ人か、僕のような外国人が、代理人となって動くかしかないというわけだ。ということで、日本の知り合いから頼まれて、代理人としてパスポートを預かりビザ申請をすることになった。

しかし、ビザ申請すら自分で行けないって何なんだろう。そして彼はビザが取れたからと言って、実際イスラエルからスムーズに出国できるかも分からない。

なんだか、普通のことが普通にできない状況。

 

そういえば、この間は、西岸の人がガンになり、設備の整った東エルサレムの病院に入院していたが、西岸に住む家族はお見舞いに来られないという話を聞いた。結局、そのガンの人は亡くなられたそうだが、家族はその最期を見送ることもできなかった訳だ。

人として普通のことができないこの状況って何だろうと思う。

#26 2か月の夏休みが終わり、学校が始まった

手帳をくくると、子どもたちの夏休みは619日から825日。

すっかりBlogもご無沙汰しているうちに、学校も始まった。

 

夏休み前に、こちらでいろいろ探していたサマーキャンプには、結局行かなかった。

どうも子供らが乗り気でなく、英語を伸ばそうとか、忘れないように、なんて考えていたけど、そうもならず。

日本に帰るまでの数週間は、近所で遊んだり、テルアビブの近くのヤッフォに泊まりに行ったりして、のんびり過ごした。

 

そして、日本。

成田空港に着くなりコンビニに行き、4人思い思いのものを買う。

やっぱり日本のコンビニは最強だ!と子供たちは口々に言い、僕もこれを丸ごとエルサレムに持って帰れたらどんなに良いかと心から思った。

 

この1か月の日本は、ただただ、思い思いに会いたい人に会い、食べたいものを食べ、やりたいことをやった日々。

「もう欲望のままに遊ぼう、美味しいもの食べよう、人生は楽しく、素晴らしい、を満喫しよう」、っていう感じで毎日を過ごしていた。

10か月がんばったご褒美と、次の1年のエネルギーチャージとして。

日本が楽しすぎて、戻ってくるのが嫌になっちゃわないかな、と思ったりもしたけど、楽しめるときに楽しまずにどうするの、って思って、そんな感じで過ごした。

 

ムスコはラインで連絡して、翌日から中学仲間と毎日会い、過ごしていた。

タピオカ飲みに行ったり、家でだべったり、ゲームをしたり。

こっちじゃ、ふらりと遊びに行く仲間も場所もなく、コーヒー屋に入り浸っていたから、その反動のように、時間があれば友達と過ごしていた。

 

ムスコに関して、今回の一時帰国は大事な目的があった。帰国子女対応の高校の見学や説明会に行くことだった。

好奇心もあって、軽井沢のISACインターナショナルスクールという全寮制の学校から、帰国子女が多い学校、逆に少ないザ日本の高校みたいなところまで。

 

ともかく学校の選択肢が多く、それぞれ入試方法もバラバラ、さらに帰国子女だと一つの学校で3回も異なる入り方の試験があったりで、超複雑。

もはや情報戦みたいな感じで、今まで塾にすら行かせたことのない我が家も、いよいよこんな世界に足を踏み入れることになったんだあな、という感じ。

帰国子女合同説明会なんて、大きな会場に100校ぐらいの学校のブースが並んでいて、そこを整理券をもらいながら個別相談をする。

一気に情報が集まり有益だけど、お受験お母さんパワー満開な感じに、ちょっとぐったりしたり。

 

いろいろ学校も見に行ったけど、ムスコは特にどこ行きたい、みたいなのもなく、まだ実感はないみたい。

しいて行きたい学校を聞き出すと、あんまり帰国子女のいない、中学から上がってくる人のいない学校が良いという。中学1年の途中で抜け出させられ、地元中学でできなかった学校ライフを高校で送りたい、という気持ちが今は強いみたい。

まあ、あと1年こちらで過ごすと、また変わるかもなあ、と思った。

というのも、今回帰国した時、周りにあんまりエルサレムで過ごした時の話はしなかった、というので、理由を聞くと、みんな何を聞いていいか分からないから、英語話してみて、ぐらいしか反応がなくて話しようがない、と言っていた。

まあ、そんなもんかもね。自分も高校にきたシンガポール帰国子女の子に、なんも聞けなかったよな、と思い出した。

今回の短い帰国ではそんな感じでも良かったかもしれないけど、あと1年こちらで過ごしたあとしばらく日本で過ごすと、もっと海外の日々を話せないのがつまらないと思ったり、日本に違和感を感じたりすることがあるようにも思う。

ので、今どんな学校がいいか、突き詰めてもしょうがないなあ、と思った。

今回いろいろ学校を見て考えることで、行きたい学校のイメージを持ち、それに向けて少しづつ準備しようと思っていたけど、どうもそういうことにはならないようだ。

そして今は、ムスコ本人は英語をもっと喋れるようになりたい、という思いがあるみたいなので、こちらにいる間は受験準備より、モチベーションのある英語をやらせてあげればいいのかな、と思った。

 

ムスメは、あらかじめお友達の家族に連絡して、お泊り会したり、豊島園とよみうりランドに行ったり。

そして、ハイライトは大好きな韓国アイドルのTwiceのハイタッチ会。

ラッキーなことに、ちょうど一時帰国中にあるのをネットで発見。

僕も知らなかったけど、握手よりももっと時間が短いハイタッチをメンバーとする集いらしい。ムスメにその話をしたら当然行きたいと。

で、調べてみると、参加するには最新のCDシングルを買って、おまけのカードを当てないと行けない、といういやらしい仕組みになっていた。

仮面ライダーカードが欲しくて仮面ライダースナックを買うのと同じ。おまけがメインになっている状態。

ネットでどれくらいの確率で当たるか調べたら、過去実績はどうも56枚に1枚ぐらいらしい。そんな商法にのらされてCDを買うのはしゃくだけど、まあ年に1度の帰国中にちょうどあるラッキーな状況だから、とりあえず5枚買っちゃえ、ということにした。

で、仲良しのお友達の分とあわせて10枚買い、我が家で一緒に開けてみると、なんとうちの娘が3枚、お友達も2枚も当たっていた。

ムスメら狂喜乱舞。

それぞれの一番のお気に入りも一人ずつ入っていたので、仲良く交換してお互いハッピー。神様ありがとうの結果だった。

実際のハイタッチ会は1日がかり。

結局、僕もムスメから一枚譲ってもらって、お気に入りのチェヨンとハイタッチしてきた。タッチはほんの一瞬。とっても小さい顔と、思い出そうとしても思い出せない手の感触。一瞬ゆえになんか特別な思い出になるような不思議な感覚。

ムスメは自分と同じ名前の、お気に入りのモモに会えて、涙ぐんでた。

 

親は親で、夫婦で予定を競うように入れて、人と会う。

エルサレムではほぼ毎日家族一緒に夕食を食べているけど、日本では、宮崎にある妻の実家に4人で行っていたとき以外は、全員揃うことはほとんどない状態だった。

僕は、ムスメのお出かけや、ムスコの学校関係の用事以外は、今一番関心あるマッサージ関係者に会い受けたり希望者にやったり、出発前に行けなかった広島の仲間に会いに行ったりして過ごした。

 

日本では、回転ずしと、スーパーの総菜が嬉しかった。

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そして、日本のコンビニの店員が、物の重さ、大きさを瞬時に判断しながらきれいに袋に入れて、笑顔で渡してくれた時には超感動した。日本すげーと。

イスラエルのスーパーの店員は、ものを食べながら、こちらも見ずにお金計算しておつりだけ投げるようによこし、自分で袋に入れるシステムなので。

まあ、そこまで必要か、とは思うけど、なんかパフォーマンスとしてすごい、みたいな。

そして、反対に梅雨時に帰ったので、あの湿気と温度には閉口した。

ともかくあの自分の体から出る汗が嫌、って感じで。

 

そして、日本から戻ってからもまだ休みは続く。

で、帰国3日後には、イスラムの休日で妻が休みということで、さらにイスラエルからギリシャ旅行に。

古代ギリシャの神殿を見て、そしてエーゲ海の島、サントリーニ島へ行く。ここがもう、天国のような心地よい場所。

旅行中もいつも部屋でスマホを見ていて、なんだかもったいないので、今回あらかじめ宣言し、1日デジタルデトックスをした。結局、プールで泳いだり、ご飯を食べながらゆっくり話したり。

そして、みんなで2年目の目標を考えてみた。それぞれ、生活のことと、身体のことで目標を立てた。

僕の目標は3つ。

「腹をへこます」「マッサージを積極的にやる(目標のべ100回)」「もっと外国人と関わる」

 

さらに、夏休み最後の週末は、イスラエル国内のハイファとアッコに旅行に行った。

まあ、日本で遊んだ後にいきなり戻って学校じゃあ、特に日本に帰りたがりのムスメにはあまりにギャップが大きくいので、ちょうどよかった。

ギリシャ旅行でムスメも海外を楽しみ始めたので、それならイスラエルだって同じように楽しいよ、と思ってほしくて、急遽行くことにした。

 

そして学校がまた始まる。

日本に帰った時から、「エルサレムに戻って一番いやな時は、夏休みが終わって学校に行く前日の夜」と言っていたぐらい。

でも、ありがたいことに、2学年上に日本から新しい女の子がやってきた。

実は事前にこのBlogを見て連絡してくれて、いろいろやり取りをしていて、日本でも我が家で一度会っていた。

学校が始まる前も、立て続けに2度会って、嬉しいことにすぐに仲良くなった。

そんなこともあり、初日から学校にはすんなり行き、まあ文句を言いながらも、順調に通っている。

そして、クラスメイトに韓国人がやってきて、なんだか気が合うみたいで、先生からも早々にいいお友達ですよ、と言われた。

2年目はムスメももっと楽しく過ごせそうな感じになってきた。

#25 僕が仕事を辞めて家族でエルサレムに来たわけ

僕は、2018年の8月に30年間続けてきたサラリーマン生活に区切りをつけ、妻の転勤にあわせて家族でエルサレムにやってきた。52歳で早期退職し、主夫をやりながら、人生後半のための準備とトランジッションのための期間を過ごしている。今日は、なんで僕が仕事を辞めて家族でエルサレムに来たかをあらためて書こうと思う。

 

僕はバブル時代に民間企業に入社し、ありがたいことに、その会社に海外留学を経験させてもらった。そして、バブル崩壊後の29歳の時に、民間企業から国際協力を行う政府機関に転職し、それから23年ほど働いてきた。妻も同じ組織で働いていたが、そこは男女平等な風土で、海外出張も仕事内容も男女に差はなかった。海外勤務も平等で、いつ話が来るか分からない。最初の海外勤務は、新婚当初、それぞれトルコとエジプトに行った。同じ国の派遣は当時なかったので、これでも人事的には近い場所への配慮した異動だった。

 

その後子供もでき、次に海外に行くなら家族一緒に行きたいと思っていた。すると、ありがたいことに緒方貞子さんが組織のトップだった時に、配偶者の海外転勤で辞める女性が多い組織の状況に対し、女性が継続的に働くことができるよう配偶者海外勤務の際の休職制度ができた。どちらかに海外辞令が出た際は、もう一人は休職してついて行くことができる制度である。うちは夫婦2人で同制度を希望した。

 

妻は2人の子どもを産んだ際に、それぞれ1年間の育児休暇をとったことで、仕事上のハンディを感じていた。そして、できれば自分が優先で海外に行きたいと思っていた。一方、僕はここ10年ほど国内のNGOや企業、学校教育機関等との新たな連携を進める仕事を専門に行う専門職に希望してなってこともあり、日本国内のことに関心が移っていて、海外勤務に対する欲がなくなっていた。そこで、妻の意向も踏まえ人事には「海外に行く際は妻優先で良いです」、と毎年伝えていた。

 

そんな中、前の海外勤務からお互い15年以上がたち、ついに妻の方に海外の話がやってきた。子どもは中1と小3で海外に行くにはちょうどよい時期。本人たちは日本の友達と離れることは望んではいないけど、日本社会から一度抜け出し、違う世界を経験することはきっと人生でプラスになる、と親として確信していた。そして、幸いお互いの母親もまだ元気なので、予定通り僕が妻に同伴して家族で一緒に行くことにした。一緒に海外に行くこと自体に大きな迷いはなく、せいぜいその時やっていた国際理解教育の日本の学校での推進の仕事をもうちょっとやりたかったな、と思ったことぐらい。

 

ただ、ついて行く時点で僕は52歳で、3年ほど行って帰ってきたら55歳になる。その組織で僕の場合は役職定年の歳である。そして、その後もずっと長くちゃんと働けるわけではない。一方、人生100年時代と言われ、我が家では下のムスメはまだ10歳にもなっていない。ムスメの結婚式にも出たいので、あと20年ぐらいはピシッと元気でいたい。元気でいるためには生きがいが大事で、それは自分にとってはやはり仕事による社会参加である。あと20年働くなら、今の仕事を続けていくのでなく、新しいことを見つけて仕事にしていく必要があるのは明らか。そして、国際協力の仕事だって、20年ちょっとでここまでやってこれた。そう考えれば、あと20年あれば、新たな分野に挑戦してもそれなりの仕事ができる期間がある。もし収入が今の仕事の半分になっても、今の仕事で続けられる倍の期間働けば、生涯賃金は一緒になる。まあ、今の半分の収入を自分の力で稼ぐことは簡単ではないのだが。でも、やっぱり大事なのは、自分が今わくわくしてやりがいのある仕事をすること、そして人生のお役目として社会の役に立ち、それを実感して過ごすことじゃないかなぁ、と考えた。

 

まあ、そんなことは、実はだいぶ前から考えてきていた。ある時期から、ある程度早い時期に次の仕事に向けてアクションを起こすべきとも考えていた。ただ、次にやることも決めずに辞めるほどのリスクを冒す気もなく、一方で仕事をつづけながら次の仕事の準備ができるほど器用でもなく。また、仕事自体は面白くやりがいと好奇心を満たすものが続いており、満足しつつも将来に関しては煮え切らない思いでいながら過ごしてきた。

 

これまで2つの大きな組織を経験してきて、次はどこか組織に所属するのでなく、自分の判断で仕事をしていくようなあり方が良いと思っていた。個人エージェントの時代。いくつかの仕事を、その時、内容に応じて仲間とやっていくようなあり方。今までかかわった社会起業支援で知り合った仲間が、様々な形で個人として仕事をやっている様子にも影響を受けた。常に人生に影響を与えている兄の働き方も、意識していた。ぼんやりと、最後の仕事のあり方は、自分の生き方、価値観を基準に、個人で社会と対峙することで、生きている実感も得て、自分のお役目を全うしていき、それにより悔いのない人生が送れるんじゃないかと想像している。それは、きっと組織の価値観や待遇や名前に守られない厳しい世界でもあるけれど。

 

そんなことを考えていた中でもあったので、休職して55歳にまた前の組織に戻って、役職をはずれて仕事をするなら、今このタイミングで辞めてしまったほうが良いのでは、と自然に考えている自分がいた。3年後の気持ちや自分の心身がどうなっているか分からないし、損得で言えば、とりあえず休職にして60まで働ける権利を確保しておき、日本に戻る時点で判断する、というやり方もあった。でも、気持ちとしてもう次に移っていたので、すっきりと立場を明確にしたほうが自分にも迷いがなくなって良いと思った。早期退職の時期が早ければ、その分リスクに対する多少の経済的な支援もあった。

 

今回の妻の海外勤務は、自分にとっても、良い後押しとなる話で、何か今までもんもんと考えてきたことが、環境が整い、また自分の心の準備も整い、まるで木の実が熟してぼとっと落ちるように結論がすんなり自然に出た感じだった。

 

妻はもともとパレスチナ支援がやりたくて国際協力の道に入った。その意味では妻がやりたかった仕事を家族一緒にできるための結論でもある。でも、妻の世話をしに来たつもりはあんまりない。もともと単身でもできる人だから。自分は子供の世話をしているのがここでの一義的なお役目。奥さんのためにえらいですねえ、大英断ですねえ、と言ってくれる人がいるけど、なんか違う。妻の収入でここで生活をしているから、経済的には依存しているわけだし。むしろ、共働きだからこそできることでもあるし。そもそも、根っこが自分のためでないと、何かあった時に人を恨んだり後悔するから、そんな決断はしたいと思わない。今回の決断は自分にとっても、子どもにとっても、妻にとっても良い、三方良しの答えだと思っている。

 

そして、まだ今後何をするかは明確には決まらないが、組織を離れ、家事をしたり、子どもの世話をしたり、一緒に遊んだり、時々NGOのボランティアをしたり、人に会いパレスチナ事情を聞き、やりたかったマッサージを始め、日本から来る人を案内したり、パレスチナイスラエルに関わることで相談を受けたりしながら、自分の素を取り戻し、自分の役割をゆっくり考えながら、やりたいこと、やりたい気分を大事に過ごすことで、少しずつ将来への準備になっている気がする。ので、この流れに乗っていて大丈夫だなあ、と感じながら過ごしている。

#24 学校が終わり、日本へもうすぐ一時帰国

10ヵ月間の学校1年目が終わり、2か月以上の夏休みに入った。いろいろ大変なこともあったけど、ようやく1年目が無事終了。子供たちは、毎日の学校から解放されて、本当にのびのびしている。やっぱり、毎日英語の世界で過ごすのは相当大変だったんだなあと、あらためて。

 

インターナショナルスクールの親は、我々と同じように仕事で一時的にエルサレムに住む人たちがほとんどなので、この夏休みでエルサレムを離れるクラスメイトも多い。娘と一番仲良くなったドイツ人の女の子と、ブラジルとイギリスのハーフの子の2人も、残念ながらこれでお別れ。1年が終わるたびに全員にアルバムを配っているらしく、終業式の日に、学校での様子の写真がたくさん掲載されたアルバムをもらって帰ってきた。中学の息子は、高校生の卒業式にも参加。日本の卒業式と違い、学校の中庭で、フランクな形で行われた卒業式だったようだ。

 

先日は定例の先生との面談があり、下のムスメも、この半年はよく頑張って英語も大きく成長した、良く分かっていて、あとは自信を持って話すことができればOK、と言われた。ムスコは学校にほぼ無休で通い、また最近は英語を自ら勉強しており、いいペースで過ごしている。成績表は、「よく頑張ってます、成績自体は普通ですが」、という感じだけど、まあそんなもんで全然OKという感じ。この春には学校の1泊旅行があったが、2人とも楽しく行ってきた。

 

長い夏休みは、本当は英語のサマーキャンプに参加して、いろんな人と英語を話す経験を付けさせたかったが、子供たちが行きたいと思うようなサマーキャンプもなく、大変だったこともあり、結局はリラックスして家族で過ごしている。

 

そして、日本への一時帰国も秒読みになってきた。ここ最近は、日本に帰ったら何やりたいか?がよく家族で話題になるけど、結局は、回転寿司、コンビニ、友達の3つだね、という話になる。ムスメは、お泊り会がしたい、遊園地に行きたい、ムスコは友達と遊びたい、カープが見たいということで、いろいろ今から準備をはじめたところ。さらに、ちょうどよいタイミングで、ムスメが大好きなTwiceのハイタッチ会とやらがあるらしく、どうやったら当たって参加できるか、分からないながらいろいろ探し始めている。

 

今回の帰国のもう一つの大事なミッションは、今中2のムスコの高校受験の学校探しと情報収集。これまで塾も行かず、放任でやってきたけど、あと1年ちょっとで高校受験の時期。そして、来年夏に帰ると2年ほど海外で勉強することになるので、帰国子女枠が使える。ということで、ちょっと調べたけど、どの学校が良いか、どういう試験か、なんてことががさっぱり分からない。ので、今回、知り合いの勧めもあり、学校の説明会とかに顔を出すつもり。

 

最近は、教育改革の流れをくんだ面白い新設校などもある。実態が良く分からないけど、そういうところも僕自身も興味があり、向学のためにも一緒に見てまわりたいなぁ、と思っている。帰国子女枠のことはまだまだ良く分かず、もしご存知の方がいれば、いろいろ教えてほしいと思っているので、よろしくお願いします。

 

さて、自分にとっても新しい生活の1年目が終わる。エルサレム生活に慣れること、パレスチナを理解すること、子どもの世話を中心とした主夫生活をつつがなくやることはとりあえず及第点。エルサレムに住む様々な日本人とつながることができた。そして、ずっとやりたかったマッサージを日本人相手に始めることもできた。

 

2年目は、イスラエルパレスチナの知り合いを増やして生の話を聞くこと、そして、今自分の関心ある身体や心のこと、教育のことなどについて、こちらの状況を知り、学ぶことができればと思う。さらに、これまでもたくさんの知り合いが日本からエルサレムに来て、会うことができたが、2年目は、何か来てくれた人と一緒にこちらで何か面白い企てなどもできればなあ、と思っている。